ずいぶんと久しぶりに書きます。
1月31日(月)、ウィーン最後の夜に国立オペラに行きました。 観た作品は、Giacomo Puccini(ジャコモ・プッチーニ)の「La Bohème(ラ・ボエーム)」です。 妻とは、以前、このオペラをベースとした「RENT」というミュージカルを観ていたため、話の筋は大体わかっていました。私は、時差の関係もあり、少し眠ってしまいました。この作品には、日本人の方も出ていました。海外で活躍する日本人を見かけるということに不思議なものを感じました。 ところで、私は、オペラにはジーンズで行きました。荷物はまだ戻ってきていなかったので。 ちなみに妻は、H&Mでワンピースを買っていたので、私だけ正装から程遠かったのでした。 それでも、一応、Yシャツで行きましたけど。 10年前に来たときと同じでした。 いずれにせよ、周りはしっかりした服装だったので、少し浮いた気がしました。 ![]() 写真は、オペラ座に入る前にトラム乗り場から撮りました。 ![]() オペラ座の中の様子です。入り口入ったところです。 ![]() 今シーズンのスターツオーパーの緞帳です。 アメリカ出身の抽象画家Cy Twomblyの「Bacchus」という作品ということのようです。 ![]() 後ろの立ち見の席です。ここは、300円くらいでオペラが観れる場所です。 ![]() 次の日の朝、国立オペラの前を通りましたのでパチリととりました。
ザッハートルテを食べに行きました。
国立オペラの裏側にあるホテルザッハーにあるカフェザッハーの中で食べられる。 金額は、4.5Euro。 一流のホテルのカフェで食べられる金額としてはそれほど高くない金額と思われる。 ザッハートルテに、メランジェ3.5Euroをつけていただいた。 ザッハートルテには、生クリームがついていました。糖類が含まれているわけではないため、 ふわっとした味に感じます。ザッハートルテは、杏の味がするおいしいチョコレートケーキ。 実は、日本でも、ウィーン行きを決めた後に、事前学習として、銀座三越で買って食べていた。 本場のザッハートルテは、その場の雰囲気もあったのかもしれないですが、チョコレートの味が濃く、おいしかった。 私は、ケーキといえば、ティラミスが好きで、そればかり食べているのだが、今度は、ザッハートルテもその選択肢に入れようと思っている。 次は、国立オペラの予定。 ![]()
翌日、ホフブルクに向かう。
服装は前の日と同じ格好。しかも、寒い。 2日目の観光が始まりました。前日から観光をしていたのですが、気持ちは、届かなかったスーツケースに向いていました。この日は観光の間に服を買いにいく予定です。 朝9時過ぎにホフブルクでの観光。1時間ちょっと、オーディオガイドを利用して観ました。 銀器がひたすら並び、観るものを圧倒する。 その後、芸術家フンダートバッサーのデザインした建築物を観に行きました。 渦巻きの絵で有名なフンダートバッサーの家はとても住めるような雰囲気はないのですが、この家には人が住んでいて、下にあるカフェくらいまでしか入れません。入りませんでしたけど。 そこから少し歩いた場所に、クンストハウスという、これまたフンダートバッサーがデザインした家があります。こちらは、以前来たときに、入りましたが、フンダートバッサーの絵がたくさん展示されています。そこから、トラム、メトロと乗り継ぎ、シュテファン大聖堂に行きました。 ここは、モーツァルトが結婚式をあげた教会です。地下には墓地(カタコンベ)があります。 このあと、親族、会社へのお土産を買いました。スーツケースも買いました。 この日は、このあとホテル・ザッハー、オペラ座へと行きました。次回写真をアップします。 ![]() 「ホフブルク(王宮)」 ![]() 「フンダートバッサーハウス」 ![]() 「クンストハウス・ヴィエン」 ![]() 「シュテファン大聖堂」 ![]()
シェーンブルン宮殿に行った後に、美術史博物館に行きました。
今回は残念なことにアンチンボルドの絵がなかったのですが、目当てのブリューゲルの「バベルの塔」がありました。最後に入った部屋にありました。狙い通り最後に観に行ったのですが、やはりこの絵は好きです。構成もそうですが、人々の動きでブリューゲルの良さも出ています。 「バベルの塔」という作品を見て思うのは、このテーマの絵を描いている人はほとんどいないということです。聖書のテーマでは、大体、人がメインとなるだけに、この絵の存在意味はあると思っています。創造力において、建築技術なども加味されるということから、画家の力量以上のものを要求されるように思うためです。 ちなみに、美術史博物館の場所は自然史博物館と対でホフブルク(王宮)の前にあります。 美術史博物館 ![]() 美術史博物館の踊り場からアーチを見た様子 ![]() ブリューゲルの「バベルの塔」 ![]()
シェーンブルンに行った後、おなかがすいたため、メトロの駅KarlsPlatzまで戻り、食事を取りました。
食事はCafe Morzartでした。 お店は混んでいたのですが、少しの待ち時間で席に座れました。 ただ、なかなかメニューをもらえず、やきもきしていたのですが、オーダーをするとあっという間に飲み物もでてきました。出てきたシュニッツェルも大きかったです。 仔牛のシュニッツェルもナイフですぐに切れるほどのやわらかさでした。 妻が頼んだグラーシュもとてもお肉が柔らかくておいしかったです。 レモネード、レモンスカッシュとチップをあわせて45ユーロのランチでした。(高い!) シュニッツェル ![]() グラーシュ ![]()
ウィーンの宿は、一泊目は宿泊できない旨をツアー会社に連絡をしてもらいました。
そう、今回の旅行は、ツアーでした。代理店に飛行機とホテルの予約をしてもらいツアーでした。初めての体験でしたが、今回は、本当に助かりました。 それにしても、イギリス・ロンドンのヒースロー空港の夜は寒かったです。なにしろ、到着ロビーだったため、外へはすぐ出られる場所なのです。 朝、5時ころに起き(ほとんど寝ていない)、空港のカフェでおいしいスープをいただこうとしたものの、残念なことにカフェにはまだスープの準備がないということでしたので、しかたなく、コーヒーを頼み、暖を取りました。5時台には出国をし、免税店を眺め、いざ、ウィーン行きのボーディングへ。おかげさまで問題なく乗れました。外に見える、朝日がまぶしくって、うれしくって、まもなく、目的地のウィーン。ただ、この飛行機、赤字ルートのようでした。ほとんど人が乗っていませんでした。朝早かったからでしょうか? 到着してから驚いたことが起きました。 荷物が出てこない!! しかたなく、係りの窓口に荷物の確認をお願いするも、残念なことに、今回の便では着ていないとのこと。それはそうだろう。一本逃しているのだから、前の便できているはずだ。しかし、どこにも抑えていないのか、見つからない。しかたなく、宿泊先を伝えて、見つかり次第、送ってもらえるように、お願いをした。 着のみ着のままで町にでることになったため、本来はホテルに寄ってからシェーンブルン宮殿に行く予定だったものを、そのまま直で向かうことに。 外は、氷点下。本当に寒かったです。 建物の中に入っているときだけが、一番幸せでした。それにしても、今日、荷物が見つからなければ、明日以降の服が心配です。しかも、服を入れる、お土産を入れるスーツケースがないのです。 困ったものです。 ![]() 写真はシェーンブルンです。
今年の1月9日(日)に結婚式を挙げ、1月29日(土)から2月5日(土)まで新婚旅行に行っていました。
行き先は、私が好きなオーストリアのウィーンとチェコのプラハでした。 行き先が、オーストリアのウィーン、チェコのプラハである中欧に決定した経緯は、私が「どこでもよい」といっており、妻が、「新婚旅行はヨーロッパがよい。」と言っていたためです。 付近の日付は仕事が忙しかったため、ほとんど前週の日曜日と出発の前日の金曜日夜間に準備をしまいた。 航空会社はBA(ブリティッシュエラーウェイズ)でした。往復でロンドンのヒースロー経由でした。 今回の予定は、1月29日(土)の朝11時10分成田出発の、1月29日(土)22時30分にオーストリアのウィーンに着、帰国は、2月4日(金)朝8時45分プラハ発、2月5日(土)9時10分成田着の予定でした。 しかしながら、ボーディングパスの読み間違いにより、ロンドン・ヒースローからオーストリア・ウィーン行きの18時55分発の飛行機を逃してしまいました。ボーディングパスには18時35分にゲートクローズと書いてありましたが、私たちは、ゲートオープンだと思い込んでいました。 ゲートに着いたときには18時42分だったため、「ゲートクローズ!」と言われ、「翌日の朝の便でウィーンに行くように」と言うことになってしまいました。翌日の朝の便は、変更することが可能でした。罰金も発生しませんでした。荷物についても、ウィーンで引き取れるということでした。翌日の便は、朝の6時45分発であるため、6時25分にゲートクローズ。新婚旅行初夜は、ヒースロー空港に一泊することとなりました。 夫婦して相当アホでした。 本来ならば、イギリスに入国する必要がなかったのですが、夜中の23時ころに、一回入国することになり、到着ロビーで一泊することになりました。出発ロビーには、休憩できる場所がなかったためです。 ![]() この波乱の出だしから、トラブルが始まりました。
杉原千畝を知っている人はどれだけいるのだろうか?
私はこの人の名前と些細な振る舞いを知っているだけに過ぎない。 彼のことを詳しく知りたい方は、「六千人の命のビザ」を読んでみてください。 第二次世界大戦時、ロシアの領事館(現在のリトアニアのカウナス)に駐在していた杉原氏はユダヤ人に対して日本へ逃れるためのビザを休むことなく発給しました。そして、日本で免職されました。 以前アップしたものを以下にリンクします。 00シャウレイ・ヴィリニュス 十字架の丘と杉原千畝 エルサレム 杉原千畝を知っている 私のブログで「杉原千畝」で検索したら、下記も出てきました。 Hotel Rwanda
実は、当時の生の声?というわけではないのですが、臨場感がある文章が旅行中にあります。
当時、女性からの反響が大きかったのを覚えています。 04ブダペスト 最後の操ですから 今、そのときのことを思い出したいとは、これっぽちも思わないので、このときの様子は、上記のリンク先で読んでください。 補足をします。ハンガリーには温泉が複数あります。 私は行ったことがあるのは、あろうことか、このキラーイ温泉だけです。 よくも悪くも、一番衝撃的な温泉でした。ちなみに他の温泉については、当時、水着着用だったとか。 なぜ、当時のキラーイはタオル一枚だったのだろうか・・・ その後、あまりにも蛮行が過ぎるということで、水着着用となったのだとか。 私が、ハンガリーで温泉に行かないのは、私は風呂にたくさんの人と入るのが嫌いだったからです。 今は、温泉なりにみなと行くのに違和感がないのです。 しかしながら、どうも風呂というのは、一人でゆっくりとつかるものと考えていたもので。
2005年の2月のそれはそれは寒いユーゴスラヴィアのベオグラードに降り立った。
昔泊まった宿は泊まれなくなっているか、金額が高くなっていた。 ちなみに昔泊まった宿は、カンプ・コシュトゥニャーク、フラッシュ・ドラガンに連れて行ってもらった宿、クルストとアナの愛の巣、ノビ・ベオグラードのストゥーデントスキーグラッド、日本人の友人宅、TOPLICEという3星の宿。意外といろいろ泊まったものだ。ちなみに、TOPLICEには1999年に春、夏の2回宿泊した。そして、今回は、安宿の定番のドミトリーの宿に泊まった。10ユーロの宿。金額で見れば、私は高いと思ったがこれは、時代の流れでいたし方のないことだった。 宿には、イギリス人(女)、日本人(女)、ポルトガル人(女)、アメリカ人(女)、チリ人(男)X2などなど。チリ人の男がポルトガルの女の子にほれてしまったが、ポル人の女の子は残念なことに興味がなかったようだった。 そこに、オーストラリア人(女)が来た。19歳。若い。 このメンバーにアメリカ人(女)がセルビア人(男)をつれてきた。みなで散歩に出かけた。意外とこのセルビア人地の利を生かせない。私の方が知っていた。なんだか面倒な面子だった。やはり一人が楽なようだ。 そんな中、オーストラリア人(女)がアメリカ人(男)を紹介してきた。 「空爆してから少しして、ブルガリアから国境を越えてアメリカのパスポートを見せ付けて国境越えをしたんだ。」 と、自慢していた。 私は面倒だったのだけれども、彼女がすごい、と目をきらきらさせているのを見て、よくわからない負けず嫌いがでてしまった。 「よかったね。ここがセルビアで。この人らはヨーロッパの中でも、信じられないほど旅人をもてなすすべを知っている国だからね。他の国ではそうはいかないよ。そもそも、セルビアはヨーロッパで一番最初にナイフとフォークを使った国だから、他の国よりもマナーも先に身についていたしね。」 私はアメリカ人がどうも苦手だ。相手が寛大なことに気が付かず、自分がこんなことをした、ということを自慢するのはどうだろうか、と思ってしまったのだ。 アメリカ人が少し嘲るようにして私に話しかけてきた。 「君は、セルビアのことをよく知っているの?」 「あなたよりは知っていると思うよ。空爆直前と空爆直後にユーゴスラビアにいたし、空爆直後のデモにも参加したからね。そのころとお札も変わってしまったし、当時あった闇両替も、英語の通じにくいベオグラードも今ではいい思い出だよ。」 アメリカ人、オーストラリア人は目の色を変えていた。 「仕事は何をしているの?ジャーナリスト?」 「ただの旅人さ。」 言ってみたかったことだ。 その後、オーストラリアの女の子は私についてきた。理由はそれだけではなかった。 彼女は寒いベオグラードにあろうことか、手袋も薄手のもの、キャッシュカードも利用できず、現金が尽きようとしていたため、私が面倒を見ていたのだ。歩いているときは、私が手を温め、現金も私があとで返してくれればいいと言って支払っていた。旅は道連れ世は情けなのだ。 そのためか、私が食事に行くというと、彼女は一人ついてくるようになっていた。ノビ・ベオグラードのストゥーデントスキーグラッドの船上パーティにセルビア人カップルに誘われたときも、二人で一緒に行った。 とにかく3日間しか一緒にいなかったのだが、なにかと彼女は私の横にいた。 最終日の夜、ワインに酔っていた。彼女と二人でソファーに座って、みなと話しをしていた。 私は両腕をソファーにかけて座ることがよくあり、ちょうど彼女の肩に左腕をかけていた。彼女も嫌なそぶりもなかったのだが、そのうち手の位置を動かそうとしていることに気が付いた。なんだろうと思った。やわらかいものが触れていたのは気が付いていたが、それが彼女の胸だと気が付くのが遅かった。なんだ、と軽くつかんでしまったのがいけなかった。肩をいかるようにしてのけられた。ふられました。たぶん。 その翌日、夕飯に彼女と二人でワインを1本あけました。アドレスも交換しました。 「パースに来たときには連絡を頂戴。」 「了解。もしオーストラリアに行くときは、パースに行くよ。」 女の子を落とそうとか思っていたわけでもなかったのですが、なんか最後に印象に悪いことをしたのが、いまだに悔やまれます。 ただ、あの感触は・・・ 私は紳士でいたかったのに、ちょうど手のひらにそれがあっただけだったのです。あんなことでもなければ、もむこともなかった・・・ わたくしとしたことが。 < 前のページ次のページ >
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