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32.乳もんでふられる?(ユーゴスラヴィア)

2005年の2月のそれはそれは寒いユーゴスラヴィアのベオグラードに降り立った。
昔泊まった宿は泊まれなくなっているか、金額が高くなっていた。

ちなみに昔泊まった宿は、カンプ・コシュトゥニャーク、フラッシュ・ドラガンに連れて行ってもらった宿、クルストとアナの愛の巣、ノビ・ベオグラードのストゥーデントスキーグラッド、日本人の友人宅、TOPLICEという3星の宿。意外といろいろ泊まったものだ。ちなみに、TOPLICEには1999年に春、夏の2回宿泊した。そして、今回は、安宿の定番のドミトリーの宿に泊まった。10ユーロの宿。金額で見れば、私は高いと思ったがこれは、時代の流れでいたし方のないことだった。

宿には、イギリス人(女)、日本人(女)、ポルトガル人(女)、アメリカ人(女)、チリ人(男)X2などなど。チリ人の男がポルトガルの女の子にほれてしまったが、ポル人の女の子は残念なことに興味がなかったようだった。
そこに、オーストラリア人(女)が来た。19歳。若い。

このメンバーにアメリカ人(女)がセルビア人(男)をつれてきた。みなで散歩に出かけた。意外とこのセルビア人地の利を生かせない。私の方が知っていた。なんだか面倒な面子だった。やはり一人が楽なようだ。

そんな中、オーストラリア人(女)がアメリカ人(男)を紹介してきた。
「空爆してから少しして、ブルガリアから国境を越えてアメリカのパスポートを見せ付けて国境越えをしたんだ。」
と、自慢していた。
私は面倒だったのだけれども、彼女がすごい、と目をきらきらさせているのを見て、よくわからない負けず嫌いがでてしまった。
「よかったね。ここがセルビアで。この人らはヨーロッパの中でも、信じられないほど旅人をもてなすすべを知っている国だからね。他の国ではそうはいかないよ。そもそも、セルビアはヨーロッパで一番最初にナイフとフォークを使った国だから、他の国よりもマナーも先に身についていたしね。」
私はアメリカ人がどうも苦手だ。相手が寛大なことに気が付かず、自分がこんなことをした、ということを自慢するのはどうだろうか、と思ってしまったのだ。

アメリカ人が少し嘲るようにして私に話しかけてきた。
「君は、セルビアのことをよく知っているの?」
「あなたよりは知っていると思うよ。空爆直前と空爆直後にユーゴスラビアにいたし、空爆直後のデモにも参加したからね。そのころとお札も変わってしまったし、当時あった闇両替も、英語の通じにくいベオグラードも今ではいい思い出だよ。」
アメリカ人、オーストラリア人は目の色を変えていた。
「仕事は何をしているの?ジャーナリスト?」
「ただの旅人さ。」
言ってみたかったことだ。

その後、オーストラリアの女の子は私についてきた。理由はそれだけではなかった。
彼女は寒いベオグラードにあろうことか、手袋も薄手のもの、キャッシュカードも利用できず、現金が尽きようとしていたため、私が面倒を見ていたのだ。歩いているときは、私が手を温め、現金も私があとで返してくれればいいと言って支払っていた。旅は道連れ世は情けなのだ。

そのためか、私が食事に行くというと、彼女は一人ついてくるようになっていた。ノビ・ベオグラードのストゥーデントスキーグラッドの船上パーティにセルビア人カップルに誘われたときも、二人で一緒に行った。
とにかく3日間しか一緒にいなかったのだが、なにかと彼女は私の横にいた。

最終日の夜、ワインに酔っていた。彼女と二人でソファーに座って、みなと話しをしていた。
私は両腕をソファーにかけて座ることがよくあり、ちょうど彼女の肩に左腕をかけていた。彼女も嫌なそぶりもなかったのだが、そのうち手の位置を動かそうとしていることに気が付いた。なんだろうと思った。やわらかいものが触れていたのは気が付いていたが、それが彼女の胸だと気が付くのが遅かった。なんだ、と軽くつかんでしまったのがいけなかった。肩をいかるようにしてのけられた。ふられました。たぶん。

その翌日、夕飯に彼女と二人でワインを1本あけました。アドレスも交換しました。
「パースに来たときには連絡を頂戴。」
「了解。もしオーストラリアに行くときは、パースに行くよ。」

女の子を落とそうとか思っていたわけでもなかったのですが、なんか最後に印象に悪いことをしたのが、いまだに悔やまれます。
ただ、あの感触は・・・

私は紳士でいたかったのに、ちょうど手のひらにそれがあっただけだったのです。あんなことでもなければ、もむこともなかった・・・

わたくしとしたことが。
by mir2004jp | 2009-03-23 23:15 | Europe
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