大衆性とグリモ・ド・ラ・レニエールの関係

テロという言葉に対して正義を示すという輩が戦争を起こしているように思う。
実際、テロや戦争などに対してのよく見ていると確実にアジテートしている人間がキーを握っているようにも感じる。
人は乗せられ易いし、大衆の求めるものは、一つの思想であることが多い。
ただ、いつも思うのは、言い出しっぺというのは、果たして本当に最後まで自分の考えを変えないのだろうかということである。
人の心などというのは移ろい易いものであり、大衆を煽動してしまった後に、間違いに気がつくことなどというのはよくある話ではないのかと思う。
すなわち、間違いに気が付いたときには、今度は、回りに担がれてしまっていてどうにも、のっぴきならない状況になっているのではないかと考えられる。

グリモ・ド・ラ・レニエールはフランス革命の頃に存在した美食家なのだが、非常にひねくれもので、みんなをあっといわせることを好んでいた。やることなすことが革命的な人らしかったため、当然、フランス革命前においては、革命家の友人をたくさんこさえていた。なのに、革命が起きたら冷めてしまったのだという。
結局、熱くなっていたものも、傍から見てしまうとこの上なく、大したことがないものであったということを発見してしまう瞬間に出会ったのだろう。
こういったときに、身をひくことができる人、できない人で最終的には大衆の中から出られるか、出られないかといったことになるのだと思う。
人に乗せられることによって得られる大義名分は、人の良心を失わせるのだろう。そして、正義は作り上げられる。

正義は権力者のもちもので、たとえ正しくなくとも、正義なのであって、正しいことをしても、それが、権力を伴わなければ、正義への反逆はテロリズムになる。
連合国とは逆のテロリストはどうなのだろう。いずれも、煽動されただけなのに、結論を大義名分のままに行っているにすぎない。

サントーシ・シヴァンという映画監督に「マッリ(英題:テロリスト)」というものがあるが、世の中がこういった形でいいから、復讐の連鎖を切ってくれることを祈りたい。
世の中には正義は存在しない。
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by mir2004jp | 2004-04-11 00:05 | What I think about
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