アフリカの民族紛争と欧米および日本などの偏見

再び、スワさんの『仏蘭西の空を仰いでみる。』 から、コートジヴォワールの暴動と Chasse Blanc 白人狩りについてのトラバです。

人は働かなくてよいのか?そして、.なぜ、暴動が起きるるのか?

》テレビで傍観する限りは「貧困からの解放」を反政府側は叫んでいるそうですが,働かないで「貧困」から解放されるのかしらん?

ギニアという国はかつて独立を果たす際に、「奴隷の豊かさよりも、貧困の中の自由を」とスローガンを掲げた国ですが、旅の情報を拾う限りでは、どうひいきめにみても、盗みの自由も自由に含まれているようにみえます。ただ、この奴隷であることというのは謂わば隷属を意味することであり、植民地であるということでもあると考えられるわけです。エチオピアは数あるアフリカの国々の中でも特異な位置にいるのは、常に独立を保持しつづけてきたことで、知られているからともいえます。独立していたということが特殊であるとは、アフリカという大陸に対してのヨーロッパや、日本といった国々においての見方が非常に危いことを示しいると考えてもよいとおもいます。これは、一つの刷り込みの作業にも通じることだと思えます。どこかに依存しなければ成り立つことができない国々がアフリカにあるという認識です。
私の本音に迫る前に、もう一つ。
栗本英世氏の小論を読んで、昨日私が書いたコメントに認識に誤りがあったと感じています。アフリカの部族、あるいは民族という言葉の使い方を彼は指摘しておりました。私は民族紛争において、ナショナリズムの台頭ではないとのべてしまいましたが、これは誤りのような気がしています。というのは、部族とは欧米および日本といった国が見下した当て語なのだと、栗本氏がかいていた内容が納得できるものだったからです。詳細は栗本氏の本をご覧ください。そして、民族とはネイションであると述べております。アフリカの国境をみておかしいと思うのは、どの程度の人々がいるでしょうか。そして、隣の民族との配合を調査の際に、いずれかの民族であることを宣言しなければならないとしたら、どうでしょうか。
アフリカにおいての、欧米および、日本の考えは非常に画一的なものです。世界が国境線を決めたために、民族が分断されるということが平気で行なわれていました。違う民族との結婚で生まれた子どもに対して、現地の調査団は、いずれかの民族であることを求めるという下りは、欧米のごう慢ともいえると考えています。自分で判断していいといっているというのは、勝手な言い分です。国によって、子どもの属す国がどこかということでは、父や生地などなど、国によって異なっているわけですが、それを押しつけているわけです。そして、それが当たり前とおもっています。
栗本氏はいいます。彼らは自分たちの存在が危うくなるから、彼らを殺すと。そして、それが、ルワンダなどにみられる大虐殺においてうまく利用され扇動された、一般の人々が暴動の渦中に飛び越んでしまったのだと。

ここまで書いていて、私もそろそろ、お話をしめたいと思いはじめているのですが、私も含め多くの人々を魅了してやまない、存在という言葉に少し検討をいれたいと思います。

ミラン・クンデラはパルメニデスから重さと軽さを論じました。ロシアの民話、エフシナ姫では、他の存在の否定により、自己の存在を否定しました。デカルトいわく「我思う故に我あり」という言葉もありますが、アフリカにおいてだけではなく、他国の紛争に共通する事象として自己存在の確認と顕示がそこにあるようにおもえます。ナショナリズムとはそういったものと簡単に言ってよいのかわかりませんが、自己即ち、自分たちの国、あるいは民族の存在を打ち消すと受け止めたがために、あるいは、そうだれかしらが扇動したために、今回のコートジヴォワールの暴動が発生したのではないかと考えています。

もちろん、彼らが働かないというのに疑問を抱くのは、日本人的には貧困からの脱却において必要だからという意味では正しいのでしょうが、働かなくても生活できるのであれば、それは貧困ではないでしょうし、それも、彼らの生き方として許容して(この言い方が適当かは別として)いくのもありではないかと思っています。
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by mir2004jp | 2004-11-18 00:52 | Somewhere
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